トッキーさんの記事「深淵なる哲学的超短編!? 小林よしのり漫画ブック 創刊号、絶賛配信中!!」で紹介されていた、何人かの方の「主張せん」への感想を読んでいたら、自分も書きたくなっちゃいました(これは自己顕示欲?自意識過剰?承認欲求?)。
自分が一番「ん?」と思ったのが、丸ハゲよしりんの一人称が「わし」じゃなく「あて」だった事!
これはけっこう衝撃ですよ!漫画よしりんが「わし」じゃなく「あて」と言うなんて、ONE PIECEのルフィが「海賊やめて、公務員めざそっかな…」と言ってるぐらいのキャラ崩壊です。
新媒体の立ち上げ一発目に、盛大なキャラ崩壊をぶちこんで来る。これは、客席にブタの頭をぶちこむパンクバンド以上に過激で衝撃的な表現です。
ちょっと、この衝撃を勝手に拡大解釈して行きます。
「わし」という一人称は、かつて「わしズム」という雑誌名にまで使われた強力なシンボル。「わしズム」は「ファシズム」のもじりですが、その意をわしズム創刊号の「巻頭言」(漫画)から引用してみましょう。
わしは、バラバラに投げ出された価値の中から。真実に迫る価値を探し出して束ねたいと思う。
「ファシズム」には、本来、「束ねる」という意味がある。人々が思わず、警戒するような、悪い意味が全てではない。
わしはわしの価値観で「束ねる」ことに挑戦する!
これは、今の自分とほぼ同年齢のよしりん先生が書いた言葉ですが、いま全く同じ言葉を書いていてもまったく違和感のない「主張」ですね。
だけど、「主張せん」の丸ハゲよしりんは「あて」と言っている。
「わし」の語呂をfascismにつなげるなら、「あて」は…「attention」(注意、注目)でしょうか。
「私の垂れ流し」であるSNSと「政局」までが境目なく融解している現在は、メディアから個人までが秒刻みで「アテンションプリーズ!」と「主張っぽいもの」を投げ続けています。
しかし、「バズる」事を目的にすればするほど、その内容は「脊髄反射でウケやすい内容に媚びたもの」か、それを単純に反転させた「炎上狙い」になってしまう。
どちらも、わしズムの巻頭言にあった「真実に迫る」とは正反対のものです。
そんな時勢の中において、ケツの穴まで晒しながら「な〜んも主張したくない」と言っている「あて」は、この上なく過激なものに見えてしまう。むしろ最大級のアテンション!
「あて」という一人称で思い浮かぶのが、東大一直線シリーズにおける、主人公・東大通の朋友「多分田吾作」です。
多分は、究極のアホである東大通をも狼狽させる程のアホですが、要所要所で東大の「ブレ」を直す重りとなっている。言わば「バランス」の役割を担っています。
「バランス」は、推進自体を止めてしまう「日和り」ではなく、むしろ本質のど真ん中を突くために存在するもの。
価値相対化の紊乱においては「束ねる」事に最大の意義がありつつ、世間全体が明らかなる理不尽に突入しそうな局面では、相対的価値が本来持っている意義を発動して「バランス」を取らねばならない。
これは、まことに「保守」的な感覚と言えるのではないでしょうか。
さて、「主張」はこれぐらいにして(笑)最後に全然別の観点で滅茶苦茶マニアックに思った事を。
「小林よしのり漫画ブック」は、よしりん先生の漫画としては「初出がネットになる」最初のケースだと思います。
印刷の場合、描き込みによる「黒い部分」が多いほど、インクという資源を多く消費しての「強い表現」になります。
一方、ネット媒体は、パソコン、スマホ、タブレット、どれで消費されるにしろ、「白い部分」が多いほど「ディスプレイが発光して、電力を消費する」という、印刷媒体とは逆の物理的な特性があります。
「真っ白な紙」は、インクが使われていない「無」ですが、ディスプレイ上における「真っ白」って、全ての画素がMAXで発光している「エネルギー最大出力」なんです。
「主張せん」の、一見すると虚無的な表現に見える白い画面は、観点を変えると「光に満ち溢れた、エネルギー最大出力」の画面です。
これは、もし「意図」では無いとしても「偶然」ではないと、色々な感慨に浸っている頭のおかしい読者の感想をここに記録しておきます。





















